ウィリアム・ブグロー研究 (19世紀フランス画家の生涯・作品・現地調査)

William Bouguereau(ウィリアム・ブグロー)

画家ウィリアム・ブグロー(1825-1905)の肖像

アトリエのブグロー

サイト管理者

ブグロー研究者 米永輝彦(ブグローのアトリエにて)

米永輝彦(ブグローのアトリエにて)

本サイト「ウィリアム・ブグロー研究」は、ブグロー研究者・米永輝彦が30年以上にわたり収集・研究した資料を公開する専門研究サイトです。 2001年に開設した「ウィリアム・ブグロー研究」をスマートフォン対応化したものです。19世紀フランスの画家ウィリアム・ブグロー(William Bouguereau, 1825–1905)の生涯、作品、制作技法、ローマ留学、美術教育、家族関係などを研究する個人研究サイトです。管理人の米永輝彦がフランスの公文書館、美術館、文献資料を調査し,その成果を公開しています。

 

ウィリアム・ブグローは、19世紀フランスを代表するアカデミスムの画家です。本サイトでは、作品、年譜、現地調査、古絵葉書、家系図、書籍紹介など、研究成果を公開しています。日本語によるブグロー専門研究サイトとして、多数の一次資料を掲載しています。より多くの画像を取り込むことで、フランス19世紀という時代の息吹きを感じていただければと思います。

サイト趣旨

Site consacré à mes recherches sur William-Adolphe Bouguereau:

このサイトで取り上げるテーマを選定するにあたり、フランスを語る上で、切っても切り離すことのできない「芸術」がフランスの繁栄に大きく影響を及ぼしてきたことは、周知の事実であるということから、フランス人の精神が、どのように芸術の意識の芽生えに連関しているのかを注視しながら、西洋の精神性を検証してみたいと思う。

西洋美術は世界の美術を牽引してきた。西洋人は単に美的意識に秀でた民族としてだけではなく、その根っこに人を突き動かす精神を持ち合わせているという点にも着目することで、この民族を理解するきっかけが得られるのではないかと思う。

そこで、特にフランス人の精神性をフランスの通史から見てみると、浮かび上がってくるのは革命への民衆の叫びがあることに気付かされる。封建国家による虐げられていた民衆の心からの自由を渇望する悲痛な叫びが伝わってくる。

一九世紀は革命の世紀であり、民衆の中に湧きあがった団結心や蜂起などをみると、何がここまで人を革命へと駆り立てるのか、西洋の精神性に対するこの問いかけは、我々が現代を生きていくうえでも、普遍的かつ今日的な問題をはらんでいると思われる。

というのも現在の私たちの取り巻く環境は一九世紀と違って物は豊かで何不自由無く生活がおくれるものの、人々は精神的には病んで、現実に対して無力感を感じている。

一九世紀のパリ民衆の社会生活というと、貧困と犯罪、それに反乱の世界であった。しかし、惨憺たる状況の中にあっても、貧困の中で自己主張し、行動するかれらの姿に何か生き生きとした生へのひたむきさがあり、強靭な生命力や精神力が感じられ感動的でさえある。

特に一九世紀に特化してこの問題を提起する理由は、それが革命の世紀であったことと同時に、美術史のなかでも大きな転換期をこの世紀に迎えているからであり、また私自身の着目している、この時代に生きたフランス人画家の生き様を見ても、必然的にこの時代が生んだ画家であり、アヴァンギャルドの出現に対し、旧態依然とした伝統を守る保守派の立場ではあっても、毅然とした態度で自分の信念を貫いた人物であり、近代絵画史において重要な転換期に台頭してきた新しい流れの起因に関係した人物であるといっても過言ではない。そのため歴史の上では日陰の存在と化し、忘れ去られる格好となってしまったが、一九世紀の美術史において、印象派の誕生を語る上では重要な人物であり、確固たる位置を占めていることに変わりはない。

 

要するに「官学派」に対して、反逆者として歴史に登場してきた彼らとて古典伝統を学び、尊重し、その後継者であることが真の前衛であり、突然に出現するものではないと言えるだろう。そのことから彼を取り巻く一連のアカデミスムに対する再評価としての研究が現在、世界的に起こっている。

アカデミスムの再評価

●うなぎ登りの人気

現在インターネット上で、19世紀後期アカデミスムの画家であるウィリア ム・ブグローの関連サイトの件数が数百にも上っている現象は、この画家に対 する関心の高さを物語るものである。

この数年、世界的にブグローの絵のポスターが近代美術のそれをしのぐほど 人気がでてきており、日本の業者もネット上で販売するようになってきた。

また、世界的に有名な二大オークションであるサザビーズ、クリスティーズ においては、ブグローの作品の価格は近年、うなぎ登りに上がってきている。

20年ほど前から米国を中心に、印象派以前にフランスの大衆から圧倒的支 持を得ていたアカデミスムの画家たちの再評価の動きが始まった。その理由は 、美術史において「革命の世紀」と言われる19世紀を振り返ってみると、伝 統と前衛という対立の構図があるものの、新しい流派を起こした画家たちもア カデミーの伝統的教育を受けていたことから、その教育制度を直視して美術史 をより系統立てる必要が生じてきたためである。

●熟練の高度な技術

半世紀もの長い間、忘れ去られていたアカデミスムの画家たちであったが、 彼らの熟練した高度な技術は他の流派の比ではない。

その作品全般にわたって、主題は曖昧で思想性に欠け、「芸術」の名のもと に扱われる彼らの裸婦像は通俗的と批判され、陳腐であるとの評価が下されて いた。しかし、ブグローの神話・寓話を扱った作品や宗教画・肖像画には、甘 い茶系色を生かしたトーンの展開の美しさに加えて、考え抜かれた構成のなか に色彩の妙があり、肌の表現は迫真に満ちている。これこそ「美の極致」と思 わせるその甘美な画風に人は酔いしれる。

私のブグロー研究も既に14年(出版当時)を過ぎた。このほど「ウィリア ム・ブグローの生涯」(マリウス・ヴァション著、東洋出版)を編訳したが、 私は何も一画家の画業を著したかったのではない。私の研究は、彼がかたくな に守っていた仕事に対する真摯な姿勢、幼年期より培われてきたキリスト教の 教えからくる神に対する敬虔な信仰が、彼の1200点もの膨大な作品一点一 点に貫かれている、その驚きから出発している。

●神の偉大さの前で

神を崇拝し創造物を賛美し、歓喜するところから生まれる創作姿勢。ブグロ ーは、我々人間が神より多大な恩恵にあずかり生かされているという認識に立 って自然と対峙している。求めても求めてもただ神の偉大さを知らされるだけ であり、泉のほとりで喉を涸らすがごとく理想を追い求め、曖昧さを許さなか った画家なのである。美術史の謎とも思えるこの画家の過小評価も、視点を変 えるところから無視できない側面が見えてくるのではないだろうか。

制作に対する純粋な芸術的衝動は、時代やスタイルに関係なく優れた作家な らば共有されていくものであろうし、ブグローのこの唯一の神への信仰こそが どの時代においても普遍的なものとして現代の我々に投げかけられているとい うことを、私はこの本の中で著したかったのである。 (西日本新聞掲載記事2001年6月14日)

フランスの画家

1825年     フランス南西の都市、ラ・ロシェルに生まれる

1844年     ボルドー市立デッサン・絵画学校にて一等賞を得る

1846年     パリ国立美術学校(ボザール)入学

1850年     ローマ賞受賞             ヴィラ・メディチでシャルル・ガル二エと出会う

1856年     フランス政府より制作依頼

1857年     サロンにて一等賞受賞

1859年     レジョン・ドヌール五等勲章

1861年     政府買い上げ

1862年     政府買い上げ

1875年     アカデミー・ジュリアンにて指導始める

1876年     フランス美術アカデミー会員になる レジョン・ドヌール四等勲章

1877年     政府買い上げ

1878年     万博にて名誉賞

1879年     政府買い上げ

1884年     美術アカデミー会長になる

1885年     サロンにて名誉賞 レジョン・ドヌール三等勲章

1888年     国立美術学校の教授に任命される

1903年     レジョン・ドヌール二等勲章

1905年     ラ・ロシェルにて死去

19世紀後期のフランス美術の代表的画家の一人

甘美な画風の神話画、寓意画、宗教画、肖像画を描く

イタリア留学時に15世紀イタリア美術様式から影響を受ける

国際的な名声を得、ありとあらゆるメダル、名誉、富を得る

作品の多くはイギリス、アメリカで個人コレクションとなっている

ウィリアム・ブグローの主要作品

ビーナスの誕生(パリ、オルセー美術館)

慰めの聖母(ストラスブール現代美術館)

装飾壁画:

(パリ、サン・クロティルド教会)

(パリ、サン・ヴァンサン・ドゥ・ポール教会)

(パリ、サン・トーギュスタン教会)

(ラ・ロシェル, ラ・ロシェル大聖堂)

(ボルドー、グラン・テアトル)

ウィリアム・ブグローの厳選作品

ウィリアム・ブグロー《レディ・マックスウェル》(1890年)

レディ・マックスウェル(1890)

ウィリアム・ブグロー《ヴィーナスの誕生》(1879年)

ヴィーナスの誕生(1879)

ウィリアム・ブグロー《待ち伏せするキューピッド》(1890年)

待ち伏せするキューピッド(1890)

ウィリアム・ブグロー《キューピッドと蝶》(1888年)

キューピッドと蝶(1888)

ウィリアム・ブグロー《賞賛》(1897年)

賞賛(1897)

ウィリアム・ブグロー《主イエス・キリストの鞭打ち》(1880年)

主イエス・キリストの鞭打ち(1880)

ウィリアム・ブグロー《蜂の巣》(1892年)

蜂の巣(1892)

ウィリアム・ブグロー《フローラとゼピュロス》(1875年)

フローラとゼピュロス(1875)

ウィリアム・ブグロー《アモールとプシュケ、子供たち》(1890年)

アモールとプシュケ、子供たち(1890)

ウィリアム・ブグロー《春の夢》(1901年)

春の夢(1901)

ウィリアム・ブグロー関連書籍紹介

『William Bouguereau: His Life and Works』表紙

私とダミアン・バルトリ(ブグローのアトリエにて)

『 William Bouguereau: His Life and Worksウィリアム・ブグロー カタログ・レゾネ(総目録)』Damien Bartoli 著

これはブグローの愛好家の間で長い間出版を熱望されていた作品である。しかし、一番に出版を待ちわびていたのは著者であるダミアン・バルトリであったが、不幸にも2009年12月、彼は自分の処女作を見ることもかなわずこの世を去った。

この書籍は彼の遺作である。彼にとっての30年もの地道な研究が今晴れて、日の目を見る珠玉のブグロー研究書である。彼との出会いからお互いのブグローへの情熱を通じ、情報交換を行い、私の日本帰国後も更に共同研究をするなかで友情を育みあってきた。2005年のブグロー没後100年の出版を目指し、原稿も数年前には完成していたが、諸般の事情で出版が遅れたことが悔やまれてならない。私にとってこの作品は彼との友情の証であり、またこの作品で今後のブグロー研究にとっての新たな視座が得られることを期待する。

米永輝彦著『ウィリアム・ブグローの生涯』表紙

『ウィリアム・ブグローの生涯』米永 輝彦 著 東洋出版

本書は、ウィリアム・ブグローの復権のため、日本で初めてのブグロー研究書である。フランス外務省、在日フランス大使館および東京日仏学院の援助を受け出版するものである。

米永輝彦著『ウィリアム・ブグロー発見への旅』表紙

『ウィリアム・ブグロー発見ヘの旅』 新風舎

フランス19世紀アカデミスム絵画に対する評価の見直しが欧米で行われるようになって久しい。

 ウィリアム・ブグロー没後百年を迎える今年、美術史から忘れられていた画家がこの長い不遇の期間を経て、改めて日の目を見るようになり、生涯における全作品の八割程が判明してきたこの現状はまさに奇跡である。しかし、現実には再評価とはいくらか意味合いは違っている。

ポンピエと蔑称された画家の世界的な再評価の動きの中で、特にこの日本ではその存在すらさほど知られていなかった画家であることから日本人には目新しく、日本人画家にない、その卓越した技術や西洋文化への憧憬が、表面的ながら、その精緻で甘美な世界に魅かれるというのも、今この画家が注目される理由としてあげられよう。

これまでの百年とは違ったこれからの百年の鑑賞に堪えうる作品となるか厳しい批評にさらされ真価が問われていくことだろう。

近年、アカデミスムの代表的画家一人ひとりにスポットが当てられ19世紀後期アカデミーの果した役割に美術史で確固たる位置付けが与えられて、それがアカデミー派画家の復権に寄与してきた。

時代的に新古典主義、ロマン主義を経て印象派へと移っていく過程で、前衛的流派の出現は突発的なことではなく、伝統的な古典主義への反発とはいえ、それはあくまで古典の深い理解と認識があってはじめてアカデミスムをステップとして別の視点にたった表現が目指せるのである。そういった観点から印象派の誕生を知るためにもアカデミスムの研究に目が向けられるのは当然の帰着であり、意義のあることであろう。

私はこのアカデミスムと同義語ともいえるウィリアム・ブグローと長年深く関わってきて、色々な資料収集や作品を訪ね歩き、画家の子孫との出会いもあり、貴重な資料、個人蔵の作品に触れられた。

本書『ウィリアム・ブグロー発見への旅』では私のブグロー研究で、徐々に私の画家としての表現の認識を改めていく心の変化の過程と画風から受ける誤解を払拭し、高潔な人物の内面の世界を描こうと試みた。

ウィリアム・ブグローのスタイルは保守的な古典主義を踏襲していると見られるがあくまでも彼が到達した彼ならではの世界であり、制作態度には曖昧さを許さない張り詰めた緊張感で彼自身のなかにはマンネリ化は一切見られず、一貫して美への追及が生涯にわたって見られた。

19世紀のフランス史で起こった諸々の出来事は市民一人ひとりが何らかのかたちで関わった1848年革命であり、パリ・コミューンである。一人の人物の生涯を知ることはその舞台裏を知ることであり、市民戦争の実態やその時代の精神がどういうものであったかを知る事ができる。

フランス学士院会長の座にまで上りつめた知性と、画家の特性である豊かな感受性で、時代を捉えている膨大な書簡などから、混沌とした時代のなかで寵児としてもてはやされ、激動の時代を駆け抜けた19世紀後期のフランス画壇を代表する画家の生き様が浮き彫りにされている。

こういった事例も視覚的に理解を助けるのが古絵葉書である。本書では私の膨大なコレクションの中から適切に状況を伝える古絵葉書の写真と貴重な図版とをあわせ140点を選りすぐり、見る者を19世紀の旅へと誘うと共に、ブグロー芸術をよく表わす厳選された32点の作品のカラー写真を通してブグローの魅力を発見していただければ幸いである。

米永輝彦著『フランスからの玉手箱』表紙

『フランスからの玉手箱』米永 輝彦 著

 

《フランスへの憧憬から自己覚醒へ》

急激な時代の変化に伴い、我々は海外からの人の流入に対する対策を急がねばならない。その一方で、古き良き日本の伝統文化や日本人の性質が失われつつある現状がある。 16年間のフランス体験を通して、再発見した日本の素晴らしさや日本人の神髄を伝えるエッセイである。

しかし、根底にあるのは日本の将来を憂う気持ちであり、現状の日本が日本でなくなり、日本人が日本人でなくなっているおかしな現象が起きていることにある。 またフランスの文化やマナー、日本の歴史や礼儀などの両国の違いや価値観の違いは、留学を予定されている人に伝えたいことである。

米永輝彦著『変わりゆく日本を見つめて』表紙

『変わりゆく日本を見つめて』米永 輝彦 著

本書は既刊本『フランスからの玉手箱』を大幅に加筆・訂正した電子書籍です。ペーパーバック版もあります。Amazonでのみ販売

ブグロー家の系図

ブグロー家の家系図(米永輝彦作成)

暦は、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世により、グレゴリオ暦が制定されていたが、フランスにはフランス革命暦が存在する。グレゴリオ暦の1793年11月24日から1805年12月31日までの12年間と1871年のパリ・コミューン時のフランス独自の暦であり、表記は各月が文学的月名があてられ、日付もグレゴリオ暦とは異なる。当然この期間に作成された公文書は革命暦に準じていて、現在の暦に変換しなければならない。

家系図を作成する上で、有用な戸籍簿に出生、死亡、結婚(民事婚)ごとの帳簿が役所にあり、それにカトリック圏特有の洗礼、結婚(教会婚)の帳簿を教会が保有している。古い年代のものは市や県の古文書館でマイクロフィルムにして保管されてある。尚、当時の人の歿年は死亡届が提出された市町村がわからなければ調べようがない。

ブグロー家の家系を作成するにあたり、「bouguereau」の家名と配偶者の家名を辿っていくにつれ、ラ・ロシェルの有力者の一族、聖職者、政治家、海運業者との繋がりなどが見えてきたことがこの作業における収穫であった。

過去の講演会

古絵葉書に見るブグローの時代

  古絵葉書は歴史を知る上で非常に貴重な資料であり、その価値、重要性を知ったのは,1905年のブグローの葬儀を伝える絵葉書を見た時であった。以来、私の古 絵葉書収集が始まった。それらは、ブグローを取り巻く社会、またその時代の人々の生活を語っている。

 

尚、フランスにおける最初の絵葉書は、1881年の挿絵入り葉書であるが、実際写真入りのものは、1897年前には多くは見られない。撮影された年を知るのは難しいが、消印で推測するしかない。また、表側が2つに区分され、通信欄が設けてあれば1903年以降のものであり、全面が宛名欄のみであれば1903年以前に撮影されたものである

フランス全図

ラ・ロシェル 1

ラ・ロシェルの風景(フランス)

フランス南西の海港都市。シャラント・アンフェリュ―ル県(現シャラント・マリティ―ム)の主都。主な産業は塩とワインであった。1154年からイギリスの支配下に置かれ、1570年以降ユグノーの根拠地となったが、リシュリューに占領された。 18世紀になると、アンティル諸島の砂糖や三角貿易、そしてカナダの毛皮製品で町に過去の賑わいを取り戻していった。

ラ・ロシェル 2

18世紀には、商業のみならず、知的復興や、芸術的な輝きがこの街に見られる。19世紀にもなると、異教徒同士の結婚は、もはや珍しくはなく、カトリック教徒で、ワイン業者であったエリ・テオドール・ブグローと、プロテスタントのマリ・マルゲリット・ボナンが1823年結ばれた。

ラ・ロシェル 3

1814年にナポレオン1世が失脚した際に、混乱を収めるために元の絶対王政に戻そうとして起こった復古王政は、自由と平等を求める市民の不満が爆発し閉塞感は1830年まで続いた。都市部では労働者階級が劣悪な環境での生活を強いられたが、ラ・ロシェルにおいても同様であった。

そんな中、1825年、11月30日、16時、ウィリアム・ブグローはブグロー家の次男として、このデュック通りで産声をあげた。残念ながら戸籍には番地は明記されてなく、他に知るすべは無い。出生証明書には第1洗礼名をアドルフ、第2洗礼名をウィリアムとしてある。しかし、後年、それらは逆転し、家族の中ではウィリーと呼ばれた。古絵葉書では見つからず現在の通りを両側から撮影した。

ラ・ロシェル 4

誕生より5日後の12月5日、小教区の教会である、サン・二コラ教会にて、父方の宗教である、カトリックの洗礼を受ける。ウィリアムという名は、イギリスでの聖人の読み方であり、フランスでは、むしろ、ギヨームであることから洗礼名簿には、”アドルフ・ギヨ―ム”で記載されている。

ラ・ロシェル 5

その後、一家は、デュック通りの裏手に位置するサン・クロード通りに転居する。1828年、ウィリアムにとって最初の妹、マリ・アドリンが生まれる。当時はまだ、ラ.ロシェルは、都市の周りを、堀と要塞で囲まれていた。
海に一番近い門が、この”サン・二コラ門”であった。1856年、ラ・ロシェルに鉄道が開通するが、駅が近くであった事から”駅門”とも呼ばれた。しかし、1902年に取り壊される運命にあった。

ラ・ロシェル 6

ウィリアムの誕生から6年余りの期間は、残念ながらこれといった情報は見つかっていない。1832年、父テオドールの仕事の関係で、ー家は、ラ・ロシェル港の沖合いに浮かぶレ島に移り住む。総面積74k㎡の小島ながら、産業は牡蠣の養殖、塩、ワインが盛んである。

サン・マルタン・ド・レ 7

レ島サン・マルタン・ド・レの風景

一家はレ島のサン・マルタン・ド・レに移り住む。ウィリアム、7歳の時であった。子供の成長期において感受性が強く、好奇心が芽生えだす年頃である。6年間のレ島生活は興味深い。1834年、この地で2番目の妹、カトリーヌ、通称キィティが生まれる。その出生届には、ブグロー家の住所は簡略的に港岸としか記載されていない。

サン・マルタン・ド・レ 8

ウィリアムにとって、レ島の生活は、同時に義務教育の始まりでもあった。丘の上の広場の一角にあるサン・マルタンの市立小学校に入学する。小学校に隣接する劇場は現在、体育館になっているが、その目の前にある広場が、当時、運動場として利用されていた事は容易に想像できる。

サン・マルタン・ド・レ 9

ウィリアムは徐々に勉学よりもデッサンにおいて、際立った感性を示し始める。学校の本やノートには船、風景、農民や漁師のデッサンで満ちていた。また、船体や田舎仕事で使うあらゆる道具を、ナイフで木片に刻むのが得意であった。新天地でワイン仲買人としての仕事を始めた父親ではあったが、次第に家庭内で色んな問題が起こり始めていた。

サン・マルタン・ド・レ 10

小学校

この絵葉書はウィリアムが通っていた小学校である。 徐々に、夫婦間に溝が生じ、幼い末っ子を除いて子供たちは、よそへ預けられるようになる。ウィリアムが叔父(モルターニュ・スュー・ジロンドの主任神父)に預けられる背景にはこういった家庭内の問題があったのである。
*丘よりサン・マルタン・ド・レの港、遠景に水平線を望む。1838年、モルターニュ・スュー・ジロンドに向けて出発する。
一旦、ラ・ロシェルへ渡り、乗り合い馬車(当時は郵便物を運ぶ馬車が交通機関として利用されていた)に揺られ、乗り換え地であった、ソジョン市へ向かうのである。

モルターニュ・スュー・ジロンド11

モルターニュ・スュー・ジロンドの風景

サン・マルタンからモルターニュまでの道程で、はっきりわかっている事は、ソジョン市からドルイヤールという名の農民に連れられ、牝馬の背に揺られて、ある春の夜、モルターニュに到着したというだけである。おそらく、ラ・ロシェルの親戚の誰かがソジョン市まで同行し、モルターニュから馬で迎えにきたのが、ドルイヤールであろうと推測する。この思い出を50年たった後でも、鮮明に同行した人物のことを覚えていることから二人の関係性に興味を持ち、市役所の狭い片隅で長い時間お邪魔して、同時代の出生、結婚、死亡の記録を調べたがドルイヤールという名は、私が調べた範囲では、その時代この地域に一人も見つけ出せなかった。

モルターニュ・スュー・ジロンド 12

19世紀の旅というのは、快適なものではなく、特に乗合馬車による移動では、色々な突発事故が発生している。しかし、ウィリアムにとって、この旅は少年時代の楽しい思い出として後年、述懐している。

異教徒によって破壊されたこの教会には、1860年まで鐘楼は存在しなかった。 サン・テティエンヌ教会に隣接する司祭館で、ウィリアムを温かく迎えたのは、ウジェーヌとその妹のアメリーであり、それにマリという賄いの年配の女性であった。

私の訪問を快諾し迎えてくださった3人の管理人には感謝しているが、悔やまれることがある。司祭館内部はさほど当時とは変わっていないとのことで、ウィリアムが遊んでいたであろう屋根裏を見せようと、当時のままだからと私を喜ばせようと木製の梯子を立てかけ、私の目の前を先に登って行かれた時に、当時のものと思われるその黒光りする梯子がきしみだしたので、高齢の方であったこともあり、私も登るのを断念したのであった。遠慮したことを今でも後悔している。

モルターニュ・スュー・ジロンド13

ラ.ロシェルから98km離れたモルターニュの1900年頃の人口は、約1500人、現在は1000人にも満たない。
この地域の特徴である海食崖のある起伏と、広い眺望がきくことから、省令で風致地区に指定されている。 ジロンド川を望む海食崖の上に建設されたこの古い町は、ヨーロッパの最も大きな河口の広い部分を、一望のもとに収めている。

19世紀にはジロンド川における重要な寄港地であり、造船も行われていた。シャラント地方のぶどう園の一部を成し、産業はワイン、蒸留酒である。

モルターニュ・スュー・ジロンド14

司祭館

 

この司祭館の右側部分(赤線で囲った部分)は増築によるもので、当時は裏庭へ抜ける道があった。

中庭:中央に池がある

 

キッチン内

 

教会内

 

井戸

 

 話は逸れるが、ジャンヌ・ダルクに興味をもっていた頃、生地であるドムレミ村を訪ねた際、四方、人っ子一人いないその一帯を徒歩で数時間さまよった事があるが、フランスの雄大さを肌で感じ、過去へタイムスリップしたような体験をもった。このモルターニュの現在においても同じことが言える。キッチン内は19世紀当時の暖炉がそのまま保存されていて、直火による調理が想像され、この狭い空間での叔父、叔母との団欒が思い浮かばれるのであった。

 

ウィリアムは叔父からキリスト教の基礎を教えられると共に、乗馬や射撃の手ほどきも受け、シャラント地方の名所、旧跡を案内され、自然と直にふれあい、この時期に得たものは計り知れない。

モルターニュ・スュー・ジロンド 15

裏庭の4本桜のところで、叔父が銃を構え、黒歌鳥を狙っている姿を見た時の驚きを後年、述懐している。裏庭は司祭館の入り口と比べ、地盤が低いため、一階に居るつもりが裏庭に出るには台所の脇の階段から階下へ降りる格好になる。井戸、納屋、水浴びのための小屋など、当時の生活を彷彿させる空間である。 サン・テティエンヌ教会の天井様式が改修されたため近代的であるが当時の天井はより高かったと推測される。叔父ウジェーヌはこの教会の主任神父であり、モルターニュ地区一帯を廻る巡回神父の役も務めていた。叔父の傍らでミサにあずかるウィリアムの姿が想像される。

モルターニュ・スュー・ジロンド 16

3番目の絵葉書は男子生徒のための学校だが、ウィリアムが通っていた学校ではなく、役場と学校の複合施設として19世紀後半に建て替えられたものである。 ブグローの視覚に訴え、感動させた光景に、私も立ち会って体感し、彼の感動を共有したい。私の古絵葉書収集における発見の喜びが、そこにある。

 叔父と元海軍大佐といっしょにモルターニュからボルドーへ漁船に乗って旅行中、べック・ダムベスで見たジロンド川の日の出に感動したことを、子供時代の強烈な思い出として、生涯抱き続けたと後年述べている。残念ながら19世紀のべック・ダムベスの写真は見つからず、工業地帯と化した姿になってはいるものの、地形のおもしろさは伝わってくる。ちなみにベック(bec)とは鳥のくちばしの意味である。

ポン 17

ポンの風景

 1838年、9月頃、ウィリアムの中等教育のため、ウジェーヌは、父親の同意の下、モルターニュから25km離れた、ポン市の全寮制の学校に入学させる。 この都市には要塞の跡が残っており、丘の上には12世紀の城と、30mの天守閣がそびえ、眼下にスーニュ川が流れている。この地はアルブレ家の家系の領地であり、プロテスタントの居留地であった。産業は、製粉業、皮なめし業、蒸留業である。

ポン 18

 中心街を貫く通りを下っていくと、右手に折れる、コードリエ(修道士)通りがある。この言葉の由来は、昔、修道士が腰に紐(コード)をまきつけていたことからきている。この左手の建物が、ウィリアムが入学する小神学校である。ここでの3年間の寄宿生活で培っていくものこそ、ウィリアムにとって、画家として生きていく素養となっていく。

ポン 19

これがウィリアムが通っていた学校の全景である。後方にはスーニュ川が流れ、田園風景が広がっている。この画面の左下から右上への対角線上をコードリエ通りが走り、その上半分の連なる建造物群がそうである。1868年の図面によると、建物の面積は1へクタール、所有する土地(森、空き地)を含めると総面積7ヘクタールを超える。 残念ながら、現在、この大建造物を見ることは出来ないが、田園風景は19世紀とほとんど変わらない。

ポン 20

ウィリアムが在籍していたクラスでは,司祭の監督指導のもとに敬虔心を養い、神学校で司 祭にとってふさわしい品性、教養を身に付けるための、下準備としての教義が行われた。学習科目は、キリスト教教義、ラテン語仏訳、仏文ラテン語訳、古代ギリシャ語、歴史、地理学、綴字法、記憶喚起、哲学、数学、修辞学、科学であった。

ポン 21

ルイ・サージュ(1816-1888)

ウィリアムが初めてデッサンを学んだ教室

このポンでの学校生活で特筆しなければいけないのが、ルイ・サージュとの出会いである。1838年から50年間、美術教師を務めた。アングルの信奉者であったが、パリに出る事はなく、トゥールーズのヴィルムセン(ダヴィドの弟子)のアトリエで絵を学んでいる。明治時代、多くの日本人が指導を受けたジャン・ポール・ローランスもこのアトリエの出身で、その後、パリに上京している。ローランスはヴィルムセンの娘と結婚する。小神学校の校長、ブディネの友人である、トゥールーズ法律学校の教授の紹介で、敬虔なキリスト教徒であるサージュの人格がかわれ、美術修行半ばで、ポンの学校に赴任してきたのであった。ウィリアムにとって、最初の絵の指導者である。地方都市にいながら、最初の段階で、体系的な指導方法を受けられたのは幸いであった。学校内にある、公会堂の舞台の装飾画はサージュの手による。

Louis Sage (1816–1888) はトゥールーズ生まれ。青年期にJean-Blaise Villemsensのatelierで学び、Jacques Raymond Brascassatとともに同工房で働いた。22歳頃にVillemsensのatelierを離れ、1838年にPonsで素描教師となった。そして、 「SageがIngresの弟子であったとする後世の記述があるが、現時点ではこれを裏付ける同時代資料を確認できない。」

ポン 22

小神学校の制服(引用:DES CORDELIERS DE PONS A RECOUVRANCE DE SAINTES Jacques LAMARE著)

1830年の制服、制帽であるが、ウィリアムの在籍していた年も恐らく同じようなものであったろう。ウィリアムがデッサンを学んだ教室である。この学校の、これまでの聖職者による指導とは異なり、サージュは石膏像による擦筆画や鉛筆での風景画をとりいれている。遠近法、射影における理論を情熱をもって教え、その結果、生徒たちの進歩は早く、1840年には、非常に注目を集める展覧会を開いている。 残念ながら、ウィリアムは翌年には勉学を断たれることになる。

ボルドー 23

ボルドーの風景

父親はオリーブ油の仲介業に着手する為、ウィリアムを急きょ、ボルドーに呼び寄せる。バカロレア取得まであと2年というところで学業を絶たざるを得なかった。1840年度の成績は、記憶喚起(カトリック聖人名の暗記)を除いて、全ての学科は学年で1番をとり、表彰されている。 ボルドー市は、セネガルとの落花生貿易を始めたのが1840年からであった。三角貿易で新大陸との商取引が盛んになっていく。フランス第二の港として栄える。19世紀のボルドーの人口は19万4千人。 産業は、ワイン、蒸留酒、タバコ製造。精糖所、精油所。

ボルドー 24

マネージュ通り18番地

ヌーヴ通り(右側が偶数番号で20番地は手前から3軒目)

ウィリアムと家族が住んでいた住所は、マネージュ通りの18番地であった。古文書館で見つけた1870年の土地台帳には、その通りの1部が欠落している。故に現在の住所がそれにあたるか判らないし、建替え工事も考えられる。 父親が商売をしていたヌーヴ通りの20番地である。1841年の地籍図で照合すると、現在の番地とは異なっている。5階建て建物の1階に店舗はあった。そこでウィリアムは簿記の仕事をしていたのである。

子供ながらウィリアムの一日は自宅から早朝(6時~8時)のデッサンの授業に1.1㎞、そこから父親の店での仕事に2km、仕事が終わってから帰宅まで1,8㎞の距離を毎日徒歩でこなしていた。

ボルドー 25

ヌーヴ通り38番地(シャルル・マリオノ宅)

 ウィリアムは、ヌーヴ通りの店から目と鼻の先の50メートル程隔てた、39番地(写真)に住んでいたシャルル・マリオノ(後年、ボルドーの歴史作家、考古学者になる)と知り合う。ウィリアムより2歳年長のマリオノは、既に市立無料デッサン学校の生徒であった。ウィリアムにも入学を勧める。この彼からの後押しのおかげで絵の道が開けていった。

 

フランシスコ・デ・ゴヤはスペインから女友達とその娘と共にフランスへ亡命し、晩年をボルドーで送るのであるが、その娘を市立デッサン学校に入学させる。娘の送り迎えで学校には立ち寄るが、ゴヤはそこの指導に一切、口をはさむ事はなかった。ウィリアムはその学校に入学を認められるのである。 当時、モンバゾン通りの元裁判所の建物のなかにその学校はあった。(その跡地に現在は美術館がある)

じゃん

ボルドー 26

ジャン・ポール・アロー(1788-1858)

旧市立無料デッサン学校

東屋と化した内部

デッサン学校の校長、ジャン・ポール・アローによって入学が認められたウィリアムであったが、父親の仕事を助けながらの学校通いであった。 建物の老朽化により1844年、広大なジャルダン・プュブリック(公園)内に移転する。(写真;公園入り口) 写真の右手の建物がそのアトリエであるが、対になる建物(後方に見られる)の存在から、共にアトリエとして使われていたと思われる。現在は壁が取り除かれ、レクレーションのための、あずまやと化している。アロー家は18世紀から20世紀にかけて5世代にわたり、芸術家を輩出してきた一族である。昔パリで子孫のジャン・ピエール・アロー氏を訪ねたが、彼も画家である。上記ジャン・ポール・アローの写真にある小箱を所有してあり、アトリエ内にジャン・ポール・アローの自画像が飾ってあった。

ボルドー 27

2社の同図版を使った「スコットランド風景 (ブグロー作)」( ÉMILE BONZEL社)

市

(Chocolat Louit社)

この2点の絵葉書は父親の店までの道程を示している。朝の授業を終えるとすぐ,グラン・テアトル(画面中央)まで進み、そこから左折後、直進し、右奥に入ったところにあるヌーヴ通りへと向かう。 

絵の勉強において、父親から援助を受けられなくなったウィリアムは、アジャン産のプラム壷のラベルや、チョコレートの箱の底に敷く図版をリトグラフで制作し収入を得ていた。この時代の副業の”作品”に”スコットランド風景”がある。何かの図版を真似たのであろう。ボルドーに本拠地を置いていた食品・チョコレートのLouit(ルイ)社は、1840年代当時、すでにボルドーで大成功を収めていた大企業であった。ブグローが雇われていたボルドーの印刷所や商店が、地元のルイ社から「商品のラベル」や「広告用の図案」を請け負っていた可能性は十分に考えられる。したがって、「ルイ社が発注したリトグラフのパッケージやカードのなかに、少年時代のブグローが手彩色した、あるいは原画を描いたものが混ざっている可能性はある。また、特定の1社だけでなく、契約している複数の食品会社や日用品会社へ「広告用カード」として印刷している。

後年、「このリトグラフの製版は、あの高名なブグローが若い頃にうちの仕事で描いたものだ」として、価値を高めるために彼の名前を後から書き加えて再刷した、もしくは最初期のシリーズとしてブグロー名義で流通させたと考えられる。

 モルターニュ 28

サン・ボネの風景 サン・フォールの風景

 1844年、コンクールで1等賞を受け、画家になることを決意する。父親から援助を受けられないウイリアムに対して、叔父はモルターニュ地域の知人を紹介し、肖像画を描いて、パリへ上京するための資金稼ぎができるよう便宜を図る。 2点の絵葉書はサン・ボネとサン・フォールであるが、それ以外にサン・ディゼン、サン・トマ、シエル・ラ・ランド、サン・ジャン・ダンジェリ(図版は割愛する)で3ヶ月間、肖像画制作に専念し、資金を得る。

兵役

1845年21才を迎えたころには7年間の兵役に就くことが義務づれられていた。毎年、一定年齢に達した成年男子全員が役所に集められ、くじ(番号)を引かされた。 「良い番号(Bon numéro)」:定員から外れた大きな数字を引けば、兵役が免除された。 「悪い番号(Mauvais numéro)」:小さな数字を引いた若者は、徴兵の対象(当落線上の者は予備兵)となった。しかし、最悪なことにウィリアムが引いたのは12番と小さな数字であった。

合法的な「身代わり制度(Remplacement militaire)」

悪い番号を引いて徴兵対象になってしまっても、富裕層は金銭を支払って「身代わり(代理人)」を雇うことで、兵役を合法的に免れることができた。 19世紀中頃(1830年〜1860年代、主に七月王政から二月革命、ナポレオン3世の第二帝政期)のフランスの兵役制度は、「抽選制」と「身代わり(代理人)制度」を組み合わせた不平等な徴兵制であった。「身代わり(代理人)」の相場は、およそ1,500フラン〜3,000フラン(現代の価値で約1,000万〜2,000万円以上)と高額であったが、後年、イタリア留学から戻ってきてすぐに、アングウランの別荘の装飾を依頼することになる母方の叔母モンラン夫人の寛大さのお陰でで兵役を免れたのである。ウィリアムにとっての最初のパトロンである。彼女は銀行家のモンラン氏とは再婚であるが、当時はプーティエ夫人であった。もしも叔母の支援がなかったら、ローマ賞どころか、7年もの長き時間によって才能が日の目をみることはなかったことだろう。

結婚証書によれば、叔母のJeanne Louise Marceline Élisa Seignette(1809–1860)は1827年9月10日、ラ・ロシェルにおいて Frédéric Augustin Poutier(1798–1842)と結婚した。Poutier は「docteur médecin(医学博士)」であり、その父 Gilles Poutier も医師であった。したがって、ブグローの母方親族にはラ・ロシェルの医師・商人ブルジョワ層との強い結び付きが存在していたことが確認できる。

 パリ 29

19世紀のパリに関する現地調査写真

1841年、ルーアン、オルレアン線が開通するも、パリと主要都市を結ぶ鉄道開通まで、まだ数年待たねばならなかった。1846年、ウィリアムは乗り合い馬車に揺られ、3月の初頭、パリの土を踏む。 この時代のパリは、市の全周を城壁に取り囲まれていて、12区に区分されていた。(現在は20区) 街は、じめじめと不潔で、通りは狭くて薄暗く入り組んでいた。

 パリ 30

19世紀において、乗り合い馬車の発着所周辺には、通常、安宿が集中していた。オデオン座の裏手も、その発着所のひとつであった。ウィリアムが降り立った場所であったか定かではないが、パリ到着時、このすぐ近くのホテルに滞在している。 ルーブル美術館に提出したウィリアムの模写申請書によると、19世紀のフランス文学作品の中で,よく扱われたオテル・コルネイユが住所になっている。40もの家具付き部屋があり、月極めで貸されていた学生向けの安宿であった。後年、グラン・トテル・コルネイユ(写真;右側)に名称が変わったが、現在は存在しない。

 パリ 31

フランソワ・ピコ(1786-1868)

「フランソワ・ピコのアトリエの光景」エドアール・ピルス作 1847年頃

ボルドーの校長アローの推薦状と、恐らく数点の作品も携え、当時の美術界で著名であったフランソワ・ピコのアトリエを訪ねる。ロッシュフコー通りとブリュィエール通りの角に位置する建物内に、ピコの私邸とアトリエがあった。しかし現在の建物は当時の建築様式とは異なる。 登録を認められたブグローは、そこでアレクサンドル・カバネル、ギュスターヴ・モロー、イズィドール・ピルス、ジャン・ジャック・エネールらと出会うのである。この作品はウィリアムのアトリエ仲間の一人、エドアール・ピルスの「ピコのアトリエ風景」であるが、出会ってから4年後に他界する。

 パリ 32

パリ国立高等美術学校(ボザール)

ウィリアムは1846年4月、王立美術学校(現パリ国立高等美術学校、通称ボザール)の入学試験を受け、合格するが、合格者100名中99番目という成績であった。 ウィリアムの時代は、美術学校での実技指導はデッサンだけであり、専門分野ごとのアトリエは設けられてはいなかった。1863年の改革まで待たねばならなかったのである。

 パリ 33

 ウィリアムは1846年4月8日、ボザールに登録する。当時の絵画科の教授陣は、エルサン、ドロルラン、ブロンデル、エム、そして新古典主義の巨匠アングルであった。 ボザール以外のボザールの教授が開いていたアトリエや私塾は、画学生にとって、技術習得に励み、大家に意見を求めることができる理想的な教育の場であった。当然、大家のアトリエは評判がよく、短期もしくは長期に学ぶ学生の数は数十名に上った。

 パリ 34

メルボメネ室

パレ・デ・ゼチュード

 メルポメネ室はボザールの中でも最も広々とした空間の一つで、長さ30メートル50、巾15メートル、高さ14メートルもある。この名前の由来は、ルーヴル美術館所蔵の大理石の巨大な女神像の複製がおかれてあったため、そう呼ばれていた。 壁一面にかけられてある巨匠の作品のコピーは、産業館内に設置されてあったヨーロッパ美術館からのものや、ローマのフランス・アカデミーの寄宿生から送られてきたものであった。 ブグローが在籍していた年度はエムリーによって解剖学の授業が行われていた。

パリ 35

チャペル内

1832年、鋳造品や建築モデル、古典作品のコピー、それに学生の受賞作品を所蔵するための学芸館が設立された。1863年にはガラス張りの天窓を設けて、コレクションをより広く展示する古代美術館として開館した。これらの作品は、1971年、ヴェルサイユの王宮付属の小厩舎に移された。ボザールの中で最も古い建物にあたるこのチャペルは、そのコレクションが分散し、建物がボザールに割り当てられた後、石碑置き場となった。その後、イタリア、フランスのルネッサンス期の作品の複製を収める美術館となる。シガロンによるミケランジェロの「最後の審判」のコピー(1833年作)がある。

ブグロー

パリ 36

ルーヴル宮殿

チュイルリー宮殿

アルジェの女たち(ドラクロワ作)のウィリアムによる模写1847(ドラクロワ美術館所蔵)

ダンテの舟(ドラクロワ作)のウィリアムによる模写1847~1850

ルーヴル宮殿は1793年、美術館が開館し、19世紀においても増改築を繰り返し、1857年、ナポレオン三世によって宮殿としての完成をみる。 幕末使節団がナポレオン3世に謁見した、王宮であるチュイルリー宮殿はルーヴル宮殿の一角を占めていた。しかし、1870年のパリ・コミューンで焼失する。 当時のボザールの授業は、午前中のみであったので、画学生は午後を私塾やルーヴル美術館での勉強にあてていた。 ウィリアムは、パリ上京まもない1846年3月には既にルーヴルから最初のコピー許可を得ている。興味深いのは、模写対象の選択が師ルイ・サージュのアングルへの傾倒と異なって見える点である。ただし、サージュの具体的な指導内容とアローの指導内容を比較してみる必要があるかもしれないが、ウィリアム自身の美術観の形成途上の試みかもしれない。

パリ 36ー2

晩年のパリのアトリエ内部

赤丸の拡大部分

この写真の中にウィリアムが終生持ち続けていた芸術観を垣間見ることができる。1846年、ウィリアム20歳でパリに上京してきて、ルーブル美術館内を散策していた時のことである。その作品の前に立ち止まり、ものすごく感動し、その衝撃から芸術というものの神髄を見極めるひとつのヒントを得たのである。

その作品の写真を額装にしてアトリエ内に飾っておいて、晩年においても20歳の時の想いを忘れないようにしていたことを証明するものである。1899年にボルドーでの母校での優秀な生徒を称える式典での演説のなかで、そのことを公表している。若きウィリアムが悩みを抱いていた時に見た、目の前のヴェールが取り外されたように、パルテノンの石膏複製から学んだ造形原理を、晩年にも普遍的なものとして考えていたことを示している。

パリ 37

1848年革命とブグロー

1848年革命時の市街地

1848年当時の国民衛兵の服装

1848年革命とブグロー

 フランスでは1830年の7月革命後、産業革命が本格化し、資本家の力が増大し、それに伴い多くの労働者階級を生み出していった。しかし、7月王政(1830年ー1848年)の支持者である大資本家や銀行家などの大ブルジョワに有利な政策がとられていた。 人口の1%しか選挙権がもてない事に対する市民、労働者の抗議運動が起こり、国王、首相を退陣に追いやる。これを1848年の2月革命という。 この影響はヨーロッパ各地に波及する。その年の5月15日、2万人もの群集が議会に押しかけ、ポーランド支持の決議と議会の解散、新政府の樹立を要求する。彼らの後方より「国民議会万歳!」と、叫びながら、それを鎮圧した国民軍の隊列の中に、ウィリアムがいた。

パリ 37ー2

革命家たちの下院乱入

フランス人の気質

精神性とは時代ごとに変遷していくものだが、当時のフランス人たちが取った行動からは、19世紀半ばのフランス社会に深く根づいていた「普遍的理想(自由・平等)への狂信」と「市民自らが秩序の担い手となる当事者意識」という、極めて象徴的なフランス人の精神性(メンタリティ)を見て取ることができ、若きウィリアムの国民衛兵への志願は、王政側(秩序維持側)として暴動鎮圧に加わった行動 であり、彼の持つ「秩序を重んじる保守的な気質」と「環境に揺るがされない強い自己規律」が顕著に表れた行動であったといえる。ローマ賞に対して並々ならぬ情熱を抱いて準備を怠らずにいた中での、この行動には驚かされるが、国を守るという愛国心のなせる業なのだろうか。

パリ 38

1848年頃のパリ風景

ラ・ロシェル市庁舎

ローマ賞への道

19世紀フランスの画学生にとって、ローマ賞(グラン・プリ・ド・ローマ)は「国家が保証する最高のエリートコース」であり、成功への登竜門でした。大賞受賞者は国費でローマのヴィッラ・メディチ(アカデミー・ド・フランス)へ留学し、生活と制作の保証を得た上でアカデミズムの頂点へと至るキャリアが約束されていた。それはフランス画壇において、政府や富裕層から注文を受けるためにはアカデミーとの繋がりが不可欠であったからである。

大賞(グランプリ)を獲得した学生は、ローマに滞在し(19世紀は通常3〜5年間)、古典古代の彫刻の模刻やルネサンス名画の模写を通じて研鑽を積むことを課せられる。

3段階の試験内容

●第1次予選:スケッチ試験(エスキス) 内容: 与えられた聖書やギリシャ神話などのテーマに基づき、短時間で構図(エスキス)を描く試験。 目的: デッサン力と、物語の場面を劇的に構成する「構想力」がチェックされる。 通過人数: 例年、数百人の画学生から約20名に絞り込まれる。

●第2次予選:裸体デッサン・着衣デッサン 内容: 生身のモデル(主に男性)を前にし、解剖学的に正確な身体を描写する試験。 目的: 骨格や筋肉の動きを正しく理解しているか、アカデミーが最も重視する「素描力」の基礎が試される。 通過人数: ここで最終候補の10名(数名の変動あり)が選出される。

●本選:約72日間の「お籠もり」と歴史画の制作 隔離空間(ロージュ): 最終候補者は、アカデミー内に設けられた「ロージュ」と呼ばれる狭い個室に一人ずつ隔離される。外部との接触や、師からのアドバイスを完全に遮断するため。 課題: 初日に「歴史画(古代神話、聖書、歴史的事件)」のテーマが告げられる。 最初の24時間: 受験生は最初の24時間以内に、全体の構図を決めた「小さな下絵(エスキス)」を提出しなければならない。 本制作: その後、約72日間(約2ヶ月半)をかけて、提出した下絵と寸分違わぬ構図で、巨大な油彩画(本画)を仕上げる。途中で構図を変更することは一切許されない。

審査と発表: 完成した10作品は一堂に集められ、アカデミー会員による厳正な投票が行われる。 最高賞である「一等大賞(グラン・プリ)」に選ばれるのは毎年わずか1名(年によっては該当者なし)という、極めて狭き門である。

初めて参加した1848年度のローマ賞コンクールで、ウィリアムは二等の次点を受賞する。この年はグランプリ受賞者が出ず,二等はブランジェであった。その結果、生地であるラ・ロシェルの市議会、また県議会からも助成金を得る事になる。こういうところにもウィリアムのローマ賞に賭ける並々ならぬ情熱が伝わってくる。 この作品は謝意を込めてラ・ロシェル市へ贈られたが、1849年度の落選作品である。 現在のラ・ロシェル市庁舎には絵葉書にある階段はなく、二階のホールへ上がるための小さな階段に改築されてある。寄贈作品は美術館に入る前までこの二階に展示されてあった。

パリ 39

ローマ賞の最終審査に残った10名ほどがロージュと呼ばれるこの独房に長期間制作のために隔離された

名誉講堂(ローマ賞受賞者の表彰式が行われていた)

 1850年度のローマ賞グランプリはポール・ボドリーであった。しかし、二人の一等受賞者をだすことになる。奇妙なことに、1848年度に受賞者がでなかったため、ローマの寄宿先に空室があることから、次点であるウィリアムにもローマ賞が与えられる事になる。又、甲乙つけ難しの判断からか二等においても二人の受賞者をだすケースが多く見られる。しかし、実際、グランプリを獲得できなかったことには明確に留学期間の違いが生じるのである。 写真はボザールの学芸館内にある半円形講堂である。ポール・ドラロッシュの壁画で飾られた階段講堂は授賞式のためにあてられていた。ウィリアムはここで二つの賞を校長であるアングルから、ローマ賞をアカデミー終身書記から受けた。

ローマ 40

ローマの風景

フランスで起こった2月革命の影響がヨーロッパ各地に広がり、ローマでも暴動が起こり教皇ピウス9世がローマ脱出を図った。マッツイ―二率いる青年イタリア党がローマ共和国を樹立(1849年2月)、イタリア統一をめざし憲法会議開催を呼びかけた。ピウス9世はカトリック諸国に鎮圧を呼びかけ、これに応じたフランス軍の介入により、その年の7月、ローマ共和国は崩壊し、イタリア統一は失敗に終わる。 新たな侵略を抑止する役を担った、フランスの駐屯部隊がまだおかれてあるローマに、ウィリアムとローマ賞受賞仲間は1851年1月半ば到着する。

ローマ 41

ジャン・アロー(1786-1864)

 1666年,若きフランス人芸術家にイタリアの古代美術を研究させるため、在ローマ・フランス・アカデミーが設立され、その後ヴィラ・メディチに置かれたのは1803年であった。ピンチオの丘にそびえるこの建物はローマ市街、正面にはバチカンを俯瞰し、古代美術品、幻想的装飾で飾られてある。 ウィリアムのローマ到着当時、アカデミーの校長を務めていたのはボルドー時代の師、ジャン・ポール・アローの兄であるジャン・アローであった。寄宿生の中にはカバネルやシャルル・ガルニエがいた。

ローマ 41ー2 ウィリアムのイタリア到着当時(1851)の写真

ヴィラ・メディチ(1851)

ヴィラ・メディチ(1851)

ヴィラ・メディチ(1851)

ヴィラ・メディチ(1851)

ヴィラ・メディチ(1851)

ヴィラ・メディチ(1851)

ヴィラ・メディチ(1851)

ヴィラ・メディチからの展望(1851)

ヴィラ・メディチ庭園内(1851)一人がウィリアムと思われる

ローマ 42

 総敷地面積 59,616.79㎡,建物面積 5755.83㎡ のヴィラ・メディチは、整備された優雅な庭園と広大な森とで構成され、各所に古代彫刻、胸像柱が配置され、幻想的雰囲気に包まれている。絵画・彫刻・建築・版画・音楽(作曲)のローマ賞受賞者20名は、生活を保証され、創作・課題に没頭する。 絵画・歴史画部門の受賞者は5年間の滞在が認められるも、ウィリアムに与えられた期間は当初3年間のみであった。 各自、建物の2階にあるアトリエ付きの住居を与えられ、大キャンバスを使う自由制作時は庭園奥に設けられたアトリエを使うことが出来た。また有名な食堂内の壁は、これまでの寄宿生の肖像画や自画像で埋まっていて、若き日の大家の顔に囲まれた独特な空間であった。しかし、現在は全て取り外され、そこにはビリヤード台が置かれてある。

ローマ 43

サン・ガエターノ館

庭園左奥に位置するサン・ガエターノ館内に、アングルは1805年から1810年まで小画室をあたえられ、二階に住んでいた。ヴィラ・メディチでの寄宿生活後も、ローマに留まり、このヴィラからさほど遠くないグレゴリアーナ通りにアトリエを構える。 1815年にローマ賞を受賞したジャン・アローはローマでアングルと親交を深める。「ローマのアングルのアトリエ」という絵を手掛ける。グレゴリアーナのアトリエ内で、バイオリンを手に妻マドレーヌと語らうアングルをジャン・アローが1818年に描いたものである。ヴァイオリンの名手であったことから、芸術家の余技のことを”アングルのバイオリン”という。 彼らは後年、ヴィラの校長の職につくのであった。

ナポリ 44

ナポリの風景

イタリア留学期間中、ウィリアムは精力的にイタリア半島を広範囲に旅行している。特に留学一年目はアルフレッド・ドゥ・キュルゾンと行動を共にしている。彼は1849年度の風景画におけるローマ賞で二等であるにもかかわらず、なぜか留学資格が与えられた。しかし、風景画においては通常4年間のところ2年間しか認められなかった。 ナポリには10日間滞在し,ナポリ国立考古学博物館ではポンペイの出土品の展示室で古代彫刻のスケッチなどを行っている。この博物館には有名な「アレクサンドロス大王の戦い」のモザイクが所蔵されてある。

ポンペイ 45

ポンペイの風景 ポンペイレッド

ポンペイ壁画の特徴であるポンペイレッド

ポンペイ

花を摘むフローラ

キケロ邸の一部

ファウヌスの家

古代都市ポンペイは、西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火で埋没した。

その後、1748年に発見され、19世紀に本格的な発掘が進められる。

現在、2割の発掘作業を残すのみである。 発掘を契機に古代文明への関心が高まり、ギリシャ・ローマ時代への憧れと官能的傾向をももつ華やかな芸術様式を復活させようとする新古典主義が生まれ、19世紀のアカデミスム芸術の基本原理となった。 ポンペイ旅行でウィリアムは大いに影響を受けることになる。特にキケロ邸(villa de cicerone)のフレスコに感銘を受け、入念にデッサンや研究を行い、彼の初期のスタイルに大いに影響を与えている。

ローマ 46|ラファエロ模写と古典理解

ファルネジーナ邸

ラファエッロ作「ガラテアの勝利」

ブグローによる模写「ガラテアの勝利」(ディジョン美術館所蔵)

ラファエロ模写課題と転換点

  通常、巨匠の油絵もしくはフレスコ作品の同サイズによる模写は四年目の課題であったが、美術アカデミーはウィリアムに対して、二年目にファルネジーナ邸のプシュケ回廊にある「クピドとプシュケの婚宴」のコピーを課したのであった。それは大画面でおまけに天井画であった。 ウィリアムの留学期間は三年と短いことから、師であり、アカデミシャンでもあったピコの助力で同邸にあるラファエッロの「ガラテアの勝利」〔1511年作、写真上)に変更される。ウィリアムに代わってその天井画を手がけたのはブーランジェであったが、結果は不評を買うことになる。

ラファエロ模写の変更は、ブグローの古典理解に決定的な影響を与えたと考えられる。

ブグローは1852年、ローマ滞在2年目に、ファルネジーナのラファエロ《ガラテアの勝利》を原画として、293×222cmというほぼ原寸大の油彩コピーを制作した。一次資料から、彼が原画を直接研究したことは強く推定されるが、ファルネジーナで完成作を制作したか、あるいはヴィラ・メディチのアトリエで制作したかについては、現時点で直接的な記録は確認されていない。また、グリッド、カルク、写真など具体的な転写方法を特定する一次資料も確認されていない。写真もないのに、目線より高い約3mの壁画を、どうやってほぼ原寸で正確に模写したのか?という疑問が残るのである。

アッシジ 47

アッシジの風景

 ローマとフィレンツェのほぼ中央に位置し、ウンブリア地方の丘の上に建ち、周囲を城壁に囲まれた中世の都市、アッシジ。イタリアの守護聖人、聖フランチェスコは1182年、この街に生まれた。 ウィリアムは、1852年5月中旬から10月上旬までイタリア北部の旅行にでかける。 アッシジでは4週間滞在している。 サン・フランチェスコ寺院では「清貧」「純粋」「従順」を戒律とし、ただ祈ることを教えとしたフランチェスコの生涯を描いたジョットの作品をコピーしている。

フィレンツェ 48

フィレンツェの風景

 イタリア北部への旅行ではポール・ボドリーを含む数人のグループと行動を共にし、名所、旧跡、絵画を実に精力的に観て回った。

ブグローはイタリア滞在中、100以上の都市を巡り、古典美術の徹底的な観察と研究を行った。

 

フィレンツェ;英語名はフローレンスで「花の都市」の意。ルネッサンスの発祥の地で、その時代は、全ヨーロッパの金融、織物業の中心地として栄えた。世界有数の美術館であるウフィッツィ美術館では多くの時間を費やし、ミケランジェロ、ラファエロの作品にふれている。

ローマ滞在中、ブグローに課された最大の課題はラファエロの模写であった。

ヴェネチア 49

ヴェネチアの風景

大陸から4キロ、外海から2キロ離れた117の小島と、150以上の運河と400以上の橋で結ばれた「水の都」、ヴェネチア(英語名;ベニス)。 中世期より諸外国との交易を通じて、北方後期ゴシック芸術の影響を受け、装飾性豊かな建築様式を発展させた。そしてその商業上の繁栄を背景に、ヴェネチア派が生まれた。 ウィリアムはヴェネチア派のなかではティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットに興味を示し、そのなかでも特に、ヴェロネーゼの色彩の輝きの秘密を、技術的に解明しようと試みる。

ピサ 50

ピサの風景

ピサはイタリアの北西部、フィレンツェの西70キロに位置し、トスカーナ地方北部の中心都市で、中世に栄えた海運都市国家。 ガリレオ・ガリレイが数々の実験を行ったドゥオモとそれに付属する斜塔は12世紀のピサ・ロマネスク様式の大聖堂である。 白い大理石の壁に囲まれた長方形のゴチック建築物、カンポサント(墓地)には、ウィリアムが訪ねた時代は内部に多くの素晴らしいフレスコ画、古代からルネッサンス時代にまで及ぶ彫刻が所蔵されてあった。ウィリアムは回廊壁画を飾っていた作品の中で特に「死の勝利」(作者は諸説有り)に惹きつけられる。

ラヴェンナ 51

ラヴェンナの風景

 ラヴェンナはヴェネティアの南約150キロに位置するエミーリア・ロマーニャ地方の都市。かつてはアドリア海に臨んでいた古代西ローマ帝国の都として栄えた。6世紀を最盛期にビザンチン美術の花開いた古都である。 ウィリアムはサンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂や、サン・ヴィターレ教会、ガッラ・プラチーヂィア廟にて古代のモザイクをコピーしている。

パルマ 52

パルマの風景

エミーリア地方の都市;パルマ。16世紀にパルマのファルネーゼ家から出た法王パウルス3世がパルマ公国を樹立。18世紀にスペインのブルボン朝が支配し、19世紀にはオーストリアのマリア・ルイーザが統治するなど色々な文化が融合した芸術の都である。 コレッジョは主として、この地で活躍したと言われるほどに多くの作品を見ることができる。ウィリアムはこの地を訪ね、直に作品に触れることでこの画家の華麗で幻想的表現を評価することになる。

シエナ 53

シエナの風景

 12−14世紀にかけてフィレンツェと共にトスカーナ地方で最も栄えた都市国家。今でも町並みは中世の面影を残している。15世紀のルネッサンスの主流であるフィレンツェ派以前に,この都市を中心に抒情的な画風のシエナ派絵画が流行した。 ウィリアムはドゥオモ(大聖堂)内のピッコローミニ図書館にあるピントゥリッキオのフレスコ画や、シエナ国立絵画館にあるジョヴァン二・ディ・パオロ作「最後の審判」をコピーしている。

ローマ 54

ジャン=ヴィクトール・シュネッツ(1787-1870)

歴代のローマ賞受賞者の自画像に囲まれた食堂(1903年頃)

赤丸で囲ったものがブグローの自画像

ヴィラ・メディチ内の図書館

1853年からジャン=ヴィクトール・シュネッツが2回目の校長として赴任した。 3年間の滞在しか認められていなかったウィリアムは、ローマに戻り、ローマ賞受賞者に課せられた最後の課題(実物大の人物、数人で構成する歴史画)に取り組む。 早い時期よりヴィラ・メディチ内の図書館で「聖人伝」を読みふけっていた彼は、主題にローマ教会の最も尊崇をあつめた殉教者の一人、聖チェチリアを取り上げる。 教皇ウルバヌス一世によって回心した許婚者、およびその弟と共に斬首された後、サン・カッリストのカタコンベへ運ばれるチェチリアを描いた。

しかし、アカデミーから賞賛を受けた、この22人を配した縦3メートル44、横4メートル28の大画面を見ることはもはやできない。フランス政府より買い上げになった後、最終的にリュネヴィル美術館に移された。私が訪ねた時は展示されてなく、後日気持ちを持ち直し、再訪する前に写真撮影の許可依頼の手紙を出したところ、ロール状に巻いた状態で保管されてあるため許可できないとの返事が返ってきた。それから数年後、火災により焼失したのである。悔やまれてならない。

ローマ 54-2

サン・カッリストのカタコンベ

殉教者の凱旋

AI加工による「殉教者の凱旋」

パリ・リュクサンブール美術館での展示風景

リュクサンブール美術館には存命する作家の作品のギャラリーであるが、国家買い上げ全てが所蔵されていたわけではない。焼失前のウィリアムの初期の傑作「殉教者の凱旋」が写っている貴重な写真

パリ 55

 ウィリアムは最後の課題を完成させるため、アカデミーより特別に3ヵ月の滞在延長が認められている。「殉教の凱旋」はヴィラ・メディチ内で展示された後、パリへ送られた。 フランスへ帰国するため、4月20日にローマを発っている。

このイタリアでの経験は、ブグローの後年の理想主義的表現の基盤となったと考えられる。

ブグローに与えられたローマ留学の給費期間は3年間であり、正式には1853年末に終了した。しかし彼は直ちにローマを離れず、通常の5年次課題に相当する最終大作「殉教者の凱旋」《殉教の勝利―カタコンベに運ばれる聖セシリアの遺体》の完成と1854年4月のローマでの公式展示まで滞在し、同月20日にローマを離れた。したがって、1854年1月から4月までの滞在は給費期間の延長を意味するものではなく、最終提出作品に伴う給費終了後の滞在であったと考えるのが最も妥当である。

アングウラン 56

アングウランの風景

ラ・ロッシェル港沿いに住居を構えていた叔母夫婦の夫は銀行家であり、ラ・ロッシェル郊外に広大な土地を所有していた。元々この土地周辺はウィリアムの母方のセネっト家が17世紀に塩の商人として活躍していて、大地主として所有していた土地であった。別荘は城と呼ばれていて、その後敷地内では酪農も行なわれていた。建物は生乳置き場と変貌した。、今ではアングウラン市役所となり、庭園は市立公園になっている。

アングウラン 57

銀行家の夫を持つ叔母はウィリアムのこれからの生活を案じて、別荘の庭園奥にそびえ立つ東屋(パビロン)の室内装飾の仕事を与える。ウィリアムはその家族の肖像画も描いている。それで今後の生活のための資金を得た。

当時のことを考えると、別荘から庭園を巡り300メートル離れた周辺が殺伐とした場所であり、散歩の際の休憩や読書に耽るための空間をウィリアムの絵で飾ったという点には、現在とは違う時代だといっても、また管理を任されていた者がいたとしても安全面、盗難に関して不思議な気がしてならない。しかし、岩の上に建てられた建造物からの眺めは岬から海及び田園風景を望む展望台でもあった。モンラン氏からの依頼はウィリアムがパリに落ち着いてから製作が開始された。それが妻へのプレゼントであった。

それから故郷を後にして、画家としての地歩を固めるべく、パリでの生活が始まる。しかしながら、ローマ賞を獲得することで将来が約束されるといわれていた時代だとはいえ、パリでの生活はアトリエ(私設の画塾)を開くことから始まった。そこで最初の妻と出会うのである。

アングウラン 58

現在の東屋の姿に驚かされる。過去にこの地に建造物があったことを証明するものは基礎石だけとなっている。長い年月とともに歴史は忘れ去られ、ブグローの作品が収められていたことを知る者はいない。アングウランの地方史研究家のドニ・ブラウン氏のご好意で撮影して来てもらった。

20世紀初頭の絵葉書によると、木製の窓がブロックで塞がれた建物の壁にはめられた石の碑文にモンラン氏の子孫による手紙で、ある人物を告発したことが刻まれていたという。内容はわからないが、東屋で何かがあったのだろうか?内部に飾られていたブグローの作品は現在個人蔵で無事である。

ブグローの周辺

ブグローの相関図

東洋出版株式会社からのインタビュー

●ご編訳された『ウィリアム・ブグローの生涯』についてお聞かせ下さい。

『ウィリアム・ブグローの生涯』は、ブグロー研究に不可欠なジャーナリスト、マリウス・ヴァションの著した『W.BOUGUEREAU』を、私が編訳したものです。著者マリウス・ヴァションは、生前に幾度もブグローにインタビューを行いました。また、バカンスで、ブグローがラ・ロシェルへ行く際にも同行しています。ヴァションは、ブグローの生活を実際に見て、彼の絵に対する考えを十分に受けとめていたのです。 私はブグローに関する本を、「絶対に日本で最初に出版したい」という思いがとても強かったので、気持ちばかりが先走ってしまった感もありますが、『ウィリアム・ブグローの生涯』は簡潔で、しかも私が著したかったことが十分収められた作品になったと思います。

●米永さんに、「絶対に日本で最初に出版したい」と思わせた画家ウィリアム・ブグローについてお教え下さい。

 ウィリアム・ブグローは、古典的手法を重んじる19世紀後期のフランス・アカデミック絵画と同義と言えるほど、重要な画家です。当時、ヨーロッパのほとんどの国のアカデミー会員となり、あらゆる名声や富を得ました。 しかし、1905年、ブグローが亡くなった後、その名声は急速に衰えます。時代が印象派を認め始め、古風で型にはまったスタイルは時代の使命を終え、忘れ去られていったからです。私が研究を始めた時も、ブグロー関連の書物は、日本はおろか彼の母国であるフランスの書店でも、目にすることはなく、19世紀の百科事典でやっとその名を見つけられるという具合でした。 ただ、近年ではアメリカを中心に19世紀フランス美術への関心が高まり、ブグローの作品も再評価されるようになりました。もちろん評価額も鰻登りです。

●「ウィリアム・ブグロー」とは、どのように出会われたのですか?

 1984年、パリのプティ・パレ美術館で開催された「ブグロー回顧展」で、初めてウィリアム・ブグローのことを知りました。それまで、私は彼の名前すら知りませんでした。 この時、140点もの作品を見たのですが、鑑賞していく内、私の中に一つの変化が生まれました。彼の作品を見る私の視点です。

当初は技術に惹かれたが、次第に信仰に基づく制作姿勢へと関心が移った。

私はブグローの卓越した技術や色彩の美しさという表面的な美に惹かれていました。それが時が経つにつれ、私の関心は、次第に作品下に見られる彼の仕事に対する真摯な姿勢、そして幼年期より培われてきたであろう、彼の生活および絵画理念に見られるキリスト教の影響の深さに向いていったのです。

●そうだったんですか。誤解を恐れずに言わせていただければ、「運命的な出会い」だったのですね。

 ブグローについて、もう少し詳しくお話ししましょう。彼は、1825年、フランス南西の港町、ラ・ロシェルに生まれ、25歳の時、ローマ賞(注1)を受賞して、政府給費生としてイタリアに留学します。そこで、初期ルネッサンス(注2)の時代様式である「15世紀イタリア美術様式」の影響を受けました。また、当時、芸術家の主要な活動の場であったサロン(注3)で1等賞を受賞するなど、早い時期より成功を収め、画家として確固たる地位を築き上げていきます。サロンを訪れる大衆からも絶大なる人気を博し、印象派の先駆的存在であるバルビゾン派の画家(ルソー、ミレー、コローなど)を好むアメリカの収集家からもひいきされる画家の一人になります。

 

後に、ブグローは美術アカデミー(注4)のアカデミー会員に任命されます。そして国立美術学校の教授となり、ジェローム(注5)とともに、サロンの代表的巨匠として絶大なる権力を振るいました。この時、マネ、セザンヌなどの印象派画家を、コンクールで落選させています。ブグローは、印象派のような新しいスタイルを断固として認めなかったのです。

注1)ローマ賞・・毎年アカデミーが催す絵画、彫刻、版画、建築、音楽のコンクールで各部門の最優秀に輝いた者に与えられる大変名誉な賞。

注2)ルネッサンス・・14世紀末から16世紀にかけ、イタリアに興り、ヨーロッパ全土に広まったもので、古代ギリシア・ローマの文化を再現し、キリスト教の束縛によって失 れた人間性を復活させようとした運動。

注3)サロン・・1881年まで、政府主催の審査制度によって一般の参加が認められていた展覧会のこと。

注4)美術アカデミー・・サロンと美術学校を組織し美術に関する行政・教育を独占する機関。アカデミー会員に選ばれることは大変栄誉なこと。

注5)ジェローム・・(1824−1904)画家、彫刻家。古代をテーマにした新古典主義的作風やオリエンタリズムで人気を集めた。

●今後のご予定についてお聞かせください。

 長年の友人であるフランス人研究家と協力し、ブグロー没後100年を迎える2005年までに、カラー図版の総目録『カタログ.レゾネ』をアメリカで出版する予定があります。また、長年の調査で得た、ブグロー関連の膨大な資料を盛り込み、この画家の作品・人物像をより鮮明に浮き彫りにした2作目を出版したいと思っています。

サイト管理者プロフィール

米永輝彦(Teruhiko Yonenaga)

九州産業大学 芸術学部 中退
法政大学 通信教育部 文学部 史学科卒業

慶応義塾大学 通信教育部学士入学 中退

1980年 フランス、ナンシー市へ語学留学 アカデミー・グラン・ショミエール、ルーアン美術学校で学ぶ

1982年 ル・サロン銀賞受賞

1984年 パリ・プティパレ美術館にてブグロー回顧展を観る

1993,94年 美術ジャーナル画廊(銀座)にて個展

1996年 フランス、ラ・ロシェル美術館にて、美術館企画『Bouguereau vu par le pinceau de YONENAGA』展 開催

ブグロー関係者や子孫と出会う

1997年 ラ・ロシェル市より市の歴史上の人物9点(うち1点がブグロー)の肖像画依頼;

アリエノール・ダキテーヌ(1122−1204 王妃)

シャンプラン(1567−1635 探検家)

レオミュール(1683−1757物理学者)

ヴァラン(1695−1765 法律家)

ラクロ(1741−1803作家)

ボンプラン(1773−1858植物学者)

デュペレ(1775−1846海軍大将)

フロマンタン(1820−1876画家・小説家)

ブグロー(1825−1905 画家)

      

市庁舎に常設展示

ラ・ロシェル市より市の功労者として、メダル授与される

フランス19世紀美術史研究

絵画制作 肖像画注文制作

(PC用HP)ウィリアム・ブグロー研究
http://bouguereau2.g2.xrea.com

バッカスの青春(1884) 部分図